漫画は本気の外国語学習にも
役に立っている。まじで。
言語を学習する時に、直感ではわかりにくいことがあります。それは、学習をする上では壁にぶつかることになります:正しくすれば、言語学は難しく感じない。
僕は進撃の巨人の大ファンだ。先週、最新巻が発売された。もちろん、キンドル・ファイヤー(一年前ぐらいに、妻からもらった素晴らしいプレゼント)で予約していた。ということは、本屋さんが朝開く前にダウンロードをしていて、開店する前に既に読み終わっていた。
もちろん、漫画は日本語で書いてある。進撃の巨人の日本語のレベルは中級であることは僕にいいことだ。早く読めて、数ページに一回新しい言葉や珍しい言葉に当たるということだ。普通に、検索しないで、意味を推測できる。言葉の量によっては、日本人のように言葉を検索する必要がない。その漫画を読むことは僕に難しくない。
そんなに難易度が低い読み物を消費しても、日本語の勉強が進まないよって思う人がいるかもな。それは違う。
外国語学習はナンバーズ・ゲームだ。初めて聞いたり読んだりする言葉を覚えられるわけじゃない(まあ、そういう天才じゃないとな)。うまく覚えるために、その言葉を何回も接して、少しの時間が経った後に意味を思い出さないといけない。近道なんてない。
進撃の巨人の最新巻を読んでいたときに、まあまあ定期的に出てくる言葉に接した:彷徨う、さまよう, wander。日常会話で聞く言葉じゃない。普通に、先生は廊下でそんなことをしている生徒を見つけたら、怒って、「うろうろするな」と叫ぶ。生徒がうろうろするのが嫌いだ。でも、大体同じ意味をしている「彷徨う」と言わない。日本語で話す言葉と書く言葉があって、彷徨うは書く言葉だ。
僕の記憶が正しければ、彷徨うって出てくる僕が読んだものの中に、進撃の巨人しかない。最初の2、3回見たときに、辞書で検索した。でも、この最新巻で出てきたときに、検索しなくても、わかった。すぐに読んで分かった。
つまり、僕はまあまあ珍しい言葉を、僕に分かりやすいけど、学校の先生が絶対使わない日本語の情報源から覚えた。教室では漫画じゃなくて、教科書やPowerpointのプレゼンという本物の教材を使う場所だ。
それは意味がある。
気持ちいいことをしよう、ベビー。
私たちの環境は、本当の価値があるものを手に入れる方法が、たくさんの努力をすることしかないと教えてくれる。それはほとんど正しい。しかし、その努力が必ず難しく感じないといけないと思いがちがある。
時々、それはそうだ。時々、時間を作って、計画を立てて、好きな男性か女性に会うために特別な努力をしないといけない。楽しい仕事をできるために、極めて退屈でつまらない仕事をまずしないといけない時がある。それとも、楽しい仕事をした後に、疲れてめんどくさい仕事を一個ずつ努力してしないといけない。
でもさ、努力が必ず大変だと感じるわけじゃない。
残念だけど、僕は長い間にその「努力は悪く感じる」っていうウイルスのような考え方を持っていた。今でも、その考え方を制御しないと。長い間に、プログラミングを勉強したかった。しかし、アホだったので「本物のプログラマー」にならないといけないと思った。一番大きな挑戦を乗り越えたり、一番難しいプログラミングをできるようにならないといけないと思った。父は「ヴィジュアル・ベーシック」という言語を勧めてくれた。「ベーシック」というものを勉強するなんて侮辱するように聞こえた。ベーシック(もしかして一番価値のあるプログラミング言語かもしれない)は簡単、つまり偽物、役人立たない、尊敬できないと思ったので、僕に相応しくないと思った。ヴィジュアル・ベーシックを勉強するより、僕は「リスプ」という、AIのプログラミングに強いらしいニッチな言語を勉強しようとした。難しく聞こえたので、もちろん本物のプログラミングの言語だった。
うん、難しかった。実は、何年間もプログラミングを勉強しようとしていた後、プログラミングを勉強するのは止めるきっかけになるほど難しかった。それより、日本語を勉強することに集中するようにした。
勉強することが努力だと感じて疲れるよりも、努力そのものが大事だって、日本語を勉強する経験は教えてくれた。自分にも、他人にも価値がある活動を見つけて、その活動を練習したり、マスターするためにエネルギーを使ったり努力をしていると感じなかったら、理想な線に行っている。それは夢が叶う線。
外国語学習の努力は長い間にインプットするためのものに触って、理解しようとして、その頻繁にインプットしたことを実際に使うことだ。
更なる脳損傷の為に
「私の後につけてください」
でも、問題がある:先生は外国語学習に繰り返しが鍵だとわかるけれど、理解しないか、活用しないもっと大事な概念がある:エネルギーと注意。
僕は進撃の巨人を読むことで疲れるわけではない。何回読んでもつまらなくならない。読むことにエネルギーを使わない。逆に、読むことにエネルギーをもらう。ずっとそれに邪魔されずに集中できることはその証拠だ。逆に、他のことをしているときに進撃の巨人が思い浮かんでその思いが邪魔になることがある。
僕はまだ日本語の教科書を予約したことがない。
先週の授業では、一緒に働く先生の一人は非人道的っていうしかない繰り返しの活動を学生にさせた。その活動では、学生たちは以前の文書を読んでいることにしよう。活動はこうだった:
先生は、教科書を読み上げる:「先週」。
学生は、後につける:「先週」。
先生:先週の
学生:先週の
先生:先週の授業。
学生:先週の授業。
・・・
先生:先週の授業では・・・学生にさせた。
学生:先週の授業では・・・学生にさせた。
2行進んだ後、先生は後を僕に頼んだ。眠った真面目な学生の顔を見たら、笑わないようにするのが精一杯だった。普段は、積極的で素直な少年が気絶させられた。他の学生もあまりしたくなかった。しかし、ちゃんとやった。なぜかと言えば、先生はみんなが授業に参加するよう、とても厳しくて、気が短い。僕が30人の学生の拷問をさせられた時、僕はなんかキモい楽しさを感じて仕方がなかった。ほら、人が落ちてきづつくまとめの動画のようだったけど、僕はバナナの皮を置いて、みんなを滑らせる人だった。そして、分かっていた。これは、僕が人生で無理やりさせた活動の中でも最悪の活動だった。あの少年を見て、「ちくしょう、これは絶対に脳障害を与えているだろうが」と思った。
本当に脳障害を与える。人は授業で永遠のように受ける拷問でプログラミングされる。学ぶことが学校でするように大変だと感じならがら、それでも仕方なく我慢していかないといけないと教えてしまう。さらに、日本語や英語を勉強するにしても、もしたのしすぎたり簡単すぎると学んでいないと感じる。
先生の指示に従うために学生が無理に注意を向けエネルギーを使うことがよくない、ということを先生が理解すれば、その大量の拷問を避けられる。悪い結果を受けずに強く要求できるわけない。先生は自分の権力を利用して、学生に授業に無理やり参加させることで、学生を悪く指導して、完全に失敗する。
でも、先生を責めていない。教育の文化はそうやって授業を行うよう、先生を育てる。学生の服従と注意を要求できるので、学生を楽しませる必要がない。
学生の自己の利益も状況をさらに複雑にさせる。先生は学生のために授業をもっと面白くしたくても、どうやって全員にできるのか?頑張っても、先生が教える教科に興味を一生持たない学生が残るだろう。
誰も気にしない・・・なんで私が?
先生が立ち向かっている挑戦が分かりにくい。少し想像してみよう。
中学校の一年生の授業では、もう教育のキャリアを諦めた学生がすでに2人いる。少年と少女は授業でいつも寝ている。もうずっと前から、みんなと一緒に追いつけることを諦めた。英語に全然興味がなくて、将来に諦めることを後悔するよと先生の恐怖を与える説教が効かない。学年の頭に、学生はまだハイテンションで、中学校の生活に慣れていなかったので、問題が特に悪かった。もっと喋っていて、諦めかけていた学生が今より多かった。
危険な時だった。非生産的な行為は、繰り返したら、悪い習慣と呼ばれる。しかも、行為は伝染する。習慣は、良くても悪くても、広がる。広がったら、文化ということになる。いろいろな理由で、悪い習慣の方がいい習慣より伝染性が高い。
もし、彼が先生の話すことに興味がなく、それに対して先生が何にもしなかったら、授業中に話してもいいと承諾したことになる。
先生は彼が興味がなくても気にしなかったら、なんで私が気にしないといけないの?私の友達は喋りたかったら、なんでしゃべてもダメなのか?彼らは授業中に寝たら、なんで私したらダメなのか?英語は彼らに価値がなかったら、なんで私に価値があるのか?
各学年組は文化があるけど、学生は家族、街や国というもっと広い文化に入っている。もし両親が英語の成績を気にしていなかったら、なんで先生に聞かないといけないのか?なんで両親は気にしていないって?街の人たちも、友達も、同僚も、みんな日本語を喋って、英語を使わなくても生きていけるから。英語は本当に必要なのか?
先生はとても大きくて強い力と不和になっている。その挑戦を乗り越える心の準備をしていない。学生は自分の友達、家族や国の文化的な価値観に集中しているので、彼女は学生の注意を保ち続けることができない。学生は英語の先生が時間の無駄をしていると思うだろう。先生は注意と服従を要求するけど、人は自分に面白いことに集中する。「面白い」の同義語は「価値がある」、「大事」、「興味深い」、それとも「娯楽的」だ。
「面白い」って、日本語では2つの意味があるでしょう。笑わせる様って意味でもあると、考えさせる様って意味でもある。
先生は自分の教科を面白くしないと、いつも恐怖や罰で、学生の苦々しい注意と参加を要求するしかない。
でも、学生はそれぞれの興味を持っている。どうやって先生は学生の興味に応えられるんだろう?無理だろう。それより、悪い学生に恐怖と罰で殴った方が簡単だ。
悪い習慣がいい習慣より守りやすいので、伝染性が高い。
僕は問題に解決する方法を見つけたと思う。マインドセットを変える前に、何もいいことならない。僕は今の状況について暗いイメージを与えたけど、希望はまだある。その希望は1つの文章で表現できる。
あなたは重要な存在だ。
1人の英語の先生は学生が次のマントラを毎回繰り返してもらう。
Help each other
Be Original
Learn from your friends
Express your ideas
Hole in one
助け合う
オリジナルにする
友達から学ぶ
自分のアイデアを表現する
ホール・イン・ワン
Keep smiling
English only
Eye contact
Pronunciation
Compliment
High five
Action
Reaction
Gesture
Energy
KEEP CHARGE
笑顔でい続ける
英語だけ
目を合わせる
発音
褒める
ハイタッチ
行動
反応
ジェスチャー
エネルギー
キープ・チャージ
でも、それより、文章が一つだけでいいと思う。
あなたは重要な存在だ。
彼女はそれらのマントラを他のところから学んだ。それらのことを繰り返したら、学生がいい方向に指導できると言ったかもしれない。さらに、学生に先生が期待している行為も伝える。
それとも、理想的な授業は以上の性格を持っているよう、学んだかも。学生にそれらの理想的な好意を表現してもらったら、理想的な教室の環境が出てくる。
問題はこれ:言葉が多くて、それらの性格の大事さを定期的に思い出させなかったら、催眠術や無意味の音のように聞こえるようになる。先生はどうやって思い出させるのか?まあ、それらの性格をモデリングすることでできるだろう。でも、先生が売ってることを買わなかったら?
彼女はそれらのマントラが効かない授業がある。授業の文化はとてもひどい。学生は間違いをしたら、互いに笑ったりする。皮肉が大好き。いつも喋っていて、すぐに集中があっちこっち動く。学生は簡単にどうでもいいことに集中しすぎるので、先生は興味深い教材を紹介するのが危ない。先生は説教したら、学生は目を回す。先生や入っている制度を全然尊敬していなさそう。
でも、完全に自分達にハマっている。その授業のリーダーがいくつかいることがはっきりだ。それらのリーダーが先生の説教を無視して、一緒に笑う。他の学生は、直接に説教を受けないように、リーダーをサポートする。互いに行為とエネルギーを受けたり与えたりする。
先生はどう対応する?恐怖と罰。効く?今まで効いていない。
一回、先生は急に休んだ。次の日、彼女は病院に行ったって。仕事のストレスでねって「冗談」を言った。冗談、冗談って。学年が少しずつ進むほど進めば、先生の言うことは学生に攻撃的と敵対的になっている。戦争で戦っている先生だ。
彼らがいい学校に入れるかどうかは、試験の成績とか授業での頑張りとか次第だと、頻繁に思い出させた。彼女が教えることを注意しないと、試験の成績が下がる。結果的に、いい学校に入れなくて、将来はやばいかもしれないって。今することは将来に影響があるので、もっと緊張して、真剣に勉強しないといけない。そのうえ、自分だけに損しているわけではない。真剣に勉強している友達にも損しているって。
つまり、彼女のレッスンに追いつく努力が難しく感じるけど、めっちゃ苦労する将来に向かいたくなかったら我慢して勉強するしかない。
それらのマントラは効いていない。先生の行動は観客に「拍手」って書いてある看板を見せて、拍手してもらえずに無視されることで、観客に怒るように見える。
でもさ、なんで注意してくれない人に怒ることができるのか?自分がしていることより、他に大事にしていることに集中している人に、なんで怒ってもいいわけ?
より良い道がある。この授業を見ていた時に、デール・カーネギーの「人を動かす」という本から学んだことを思い出した。「人に好かれる六原則」という部分の中に、カーネギーがこう書いてある:
人間関係の法則について、哲学者は数千年にわたって思索を続けてきた。そして、その思索の中から、ただ一つの重要な教訓が生まれてきたのである。それは決して目新しい教訓ではない。人間の歴史と同じだけ古い。三千年前のペルシアで、ゾロアスターはこの教訓を拝火教徒に伝えた。二千四百年前の中国では、孔子がそれを説いた。道教の開祖、老子もそれを弟子たちに教えた。キリストより五百年早く、釈迦は聖なる川ガンジスのほとりで、これを説いた。それよりも千年前に、ヒンズー教の聖典に、これが説かれている。キリストは千九百年前にユダヤの岩山で、この教えを説いた。キリストはそれを次のような言葉で説いた(世の中で最も重要な法則と言えよう)──「すべて人にせられんと思うことは人にもまたそのごとくせよ」
人間は、誰でも周囲の者に認めてもらいたいと願っている。自分の真価を認めてほしいのだ。小さいながらも、自分の世界では自分が重要な存在だと感じたいのだ。見えすいたお世辞は聞きたくないが、心からの賞賛には飢えているのだ。自分の周囲の者から、チャールズ・シュワッブの言うように「心から認め、惜しみなくほめ」られたいと、私たちは、皆そう思っているのだ。
だから、あの「黄金律」に従って、人にしてもらいたいことを、人にしてやろうではないか。
では、それを、どういう具合に、いつ、どこでやるか?──いつでも、どこででも、やってみることだ。
人は自分が重要だと認めて欲しい。じゃあ、認めよう!
そしたら、カーネギーは学校の先生がどうやってその哲学の原則を練習した例を紹介する。
自分は重要な存在なのだと思うように仕向けてくれる人が誰かいたら、おそらく大勢の人の人生が変わるのではないかと思われる。カリフォルニアのカーネギー・コースの講師ロナルド・ローランドは美術工芸も教えているが、工芸の初級の生徒クリスの話を次のように伝えている。
クリスは物静かで、内気な、自信のない、したがって目立たない男の子だった。私はこの初級クラスの他に上級クラスも受け持っているが、上級クラスに進むことは、生徒にとっては大きな誇りであった。
ある水曜日、クリスは自分の机で熱心に作品と取り組んでいた。彼の心の奥に燃えさかる情熱の火を見る思いがして、私は、強い感動を覚えた。「クリス、どうだね、上級クラスに入れてあげようか?」。私の言葉を聞いたクリスの顔は見ものだった。十四歳の恥ずかしがり屋の感激にあふれた顔!うれし涙を懸命にこらえている様子だ。
「え!僕を?ローランド先生、僕にそんな力がありますか?」「あるとも。君には十分それだけの実力があるよ」それだけ言うのが精一杯だった。私の目にも涙があふれてきそうになったのだ。教室を出ていくクリスは、心なしか背丈が五センチばかり伸びたように思われ、私を見る目は輝き、声には自信が満ちていた。「ありがとうございます。ローランド先生」
クリスは私に生涯忘れ得ない教訓を与えてくれた。人間は自分が重要な存在だと自覚したいのだという事実に対する教訓がそれである。私は〝あなたは重要な存在だ〟と、この教訓を記した標示板をつくり、皆の目につくように、また、私自身が、生徒はそれぞれ等しく重要な存在であることを常に忘れないように、教室の入口に掲げた。
その話の状況と僕の英語の先生の授業にある状況は違うけど、あなたは重要な存在だって深い意味を持っている簡単なアイデア。意味は:
あなたに注意をしている。
私の注意を引く価値がある。
他人はあなたのすることを見ている。
他人はあなたに頼っている。
あなたの行為は重要。
あなたの人生は重要。
私と他人はあなたに期待している。
説得力の道具:ペーシング
現代社会では「あなたは重要な存在だ」と学生に言っても大丈夫のか、よく考えた。特にアメリカでは、学生があまりに高慢な自我がある。自分自身を持っている少年少女が少なくないと少年だった僕は自身で言える。学生の自我を育てる先生は不責任なんじゃない?学生は腰が低くして、先生にちゃんと注意して、先生が教えている大事なことを全部聞かないといけないんじゃない?
説得力の偉大なる先生は違うと言うだろう。
指導者は人を動かす前に、まず動かしたい人とシンクロしないといけない。スコット・アダムズはそれを「ペーシング」と呼ぶ。ペーシングは、同じ言葉と同じボディランゲージを使って、動かしたい人との共通点を表現すること。そうやってペーシングしたら、違う意見などを紹介して、相手を動かす好ましい状況になっている。
なんで先にペーシングをするって?ペーシングでは、動かしたい人の信用を得るから。人は共通点を持っている相手を信用する。人に好かれて信用されたら、相手を動かす立場に立つようになる。あなたが相手のために思っていると、相手は思うので、反対の意見を出しても、危険じゃない。
僕の英語の先生の学生は自分が重要な存在だと思っている?うん。先生と教材ずっとより重要な存在だって思っているはず。彼らと彼らの友達は一番。先生は指導できる前に、先生も学生と同感だって知らないといけない。心底からその気持ちを伝えなかったら、学生は先生が学生のために思っていると信じないと、先生を信用しないはず。
先生である彼女は私たちを大切にしていない。つまらない質問、活動、ロボットがする繰り返す勉強で私たちを拷問したいだけだ。彼女の仕事をしやすくするために、私たちを静かにしたい。私たちの悪い成績が彼女に悪いイメージを与えていることに怒っているだけ。彼女は本当に英語がどうでもいいって知っているのに、私たちの時間を無駄にしているだけ。彼女は彼女しか考えていない。
正直に言えば、その気持ちと少し同情している。先生はなんかロボットみたいで、あまり英語を楽しませる気がなさそう。授業の最初に、音楽を流すけど、まだ終わっていないのに消す。時間のために。そして、音楽の楽しさを消すためのように、また読ませて、読んだ言葉を数えさせる。先生は学生に注意しないことがある気がする。(例えば、最前列に座っていた、自分の顔にピエロのようなデザインを描いた少年には、授業が20分進んだ後に気づいた。)先生は学生が遊べる隙を見せないように、学生をわざと忙しくするって僕に言ったことがある。
先生の言うことは学生が重要にみていることと、学生も攻撃しているように聞こえる。先生は恐怖と罰で説得しようとするけど、学生はさらに防御的になる。「敵」と仲良くしようとしているに見えるので、「いい学生」に見えることがさらに難しくなる。
あなたは重要な存在だって、それを直せる。
学生が聞きたいことを伝える。学生が自分について考えていることを言う。そして、みんなは先生に平等に重要な存在だったら、積極的でも受動的でも、学生がすることは先生に大事だってわけだ。先生は注意をしている。
先生は私がすごいことができると思っているんだ。みんなの成功を願っているんだ。みんなに期待してくれているんだ。この授業、英語、学校、そして人生は意味がある。先生は怒る理由は、先生の仕事を難しくしたり、先生に悪いイメージを与えたりすることに怒っていることじゃなくて、私たちの将来を心配していることだ。
じゃあ、どうする?
カーネギーの本から、他のアドバイスも聞いたらいいかも。世界中に有名なマジシャンはカーネギーに、他のマジシャンが言うことを教えた。彼らは「やあ、あっちにアホどもがいるな、田舎の野郎どもだな。ちゃんとだましてあげるぜ。」と言った。でも、その有名なマジシャンはほかのことを言った。舞台に立ちに行く前に、自分にこそこそ言った:
僕の観客が大好き
じゃあ、「私の学生が大好き」ってどう?
あなたは重要な存在だ と 私の学生が大好き は、授業が先生のためじゃなくて、学生のためだって先生を思い出させる。教材を終わらせることは目標ではない。カリキュラムで○○から○○まで行くことも目標ではない。制度を
弱い学生を強い大人にすることは先生の目標だ。とても大事な英語のビジネスより、どうやって生きていくのか、どうやって自分で学ぶのかということを教えるほうが大事。
生き方と学び方の一番いい教える方法は?
まあ、自分の注意とエネルギーに従おう。英語や日本語や、何を学んでも、自分が面白い!って思わないといけない。他人がしたように、自分を拷問しないで。やっていることが好きだったら、そうじゃないことより疲れずに長く努力できる。
なぜかと言えば、まあ、努力は疲れなくてもいいよ。
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